印象と先入観
今の私はベリーショート、ほとんど坊主頭である。
昨年だったか、一昨年だったか、
「もう何もいらないなぁ」という実感が湧いて
髪もいらない、とカットしてもらった。
これが思いがけない先入見(観)に気づく体験となった。
鏡の前に座って、バリカンが髪を刈り上げていくにつれ
思わず目が大きく開いた。
「えっ」という軽い衝撃。
内から浮上した言葉は「おやじ顔」。
もちろん私の顔が変わったわけではない。
印象が変わったのだ。
これほど印象が変わるとは想像していなかった。
次の瞬間ハッとした。
おやじ顔って何だ?
男の顔になったという意味だ。
私の中に「男の顔」「女の顔」という枠組みがあるのだ。
「えっ」という重い衝撃。
一体いつからこんな枠組みがあるのだろう…。
昔々からあるような気がする…。
女だから、男だから、女らしい、男らしい…
私はこういう表現に違和感があったし、異議も唱えたけれども
自分の中にこうした先入見があるという事実。
何かを、あるいは誰かをパッと見た時の印象には
こうした先入見が大きく影響しているのだとまざまざと実感した。
何を当たり前と思っているだろう?
この問いはゲシュタルト実践家として大切にしてきたけれど
いやはや、まず自分でしょ。
衝撃に青ざめながら呟いた。
今、振り返って思うのは
こうした自分の枠組みに気づくと何かが柔らかくなるということ。
一人ひとりの顔立ちが以前よりくっきりと見えるようになった。
区分けする枠組みが柔らかく拡散したかのように感じている。
そして
顔の印象が変わったことは愉快な体験ももたらしてくれた。
印象がこうまで変わって驚くのは何も私自身だけではない。
会う人、会う人がびっくりするのが面白くて愉快だ。
ある時、たまたま7~15年ぶりに再会する人々が集った時は
全員が私をわからなかった。
私は懐かさや嬉しさでいっぱいになって話しかけるのだが
一人残らずポカンとして
言葉が出なかったり、誰?と聞いたり、後ずさりしたり…。
にこやかに挨拶した人が「葉子さーん!」と走ってきて
何事かと思えば
さっきは、誰だ?誰だ?と焦りながら挨拶してくれたそう。
「私のために疲れたわね」と二人で大笑いした。
今も久しぶりに会う人は一瞬ポカンとするのだが
今や自分の顔に見慣れた私は
そのリアクションに一瞬ポカンとする。
我ながら面白い。
髪型で変わった印象にはまだ余禄がある。
私の印象について感想を話してくれる人が増えたことだ。
そこには来し方を含んで今のその人自身が立ち上る。
このような出会いをもらえる幸運に私の胸は温かくなる。
人生は尽きない学びと発見に満ちていて楽しい。