ゲシュタルト療法をファシリテートする、心理療法の専門家「ファシリテーター」がワークショップの雰囲気やセッションの内容などに触れるブログを紹介しています

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ファシリテーター:河村 葉子

河村 葉子

2006年に23年間勤めた企業を退職し個人開業。ゲシュタルト療法の哲学を基盤に、個人カウンセリング、ワークショップ、依頼に応じて教え、スーパービジョンを行う。現在もゲシュタルト療法とセンサリーアウェアネスを中心に生徒としても学び続けている。

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もう名前はいらない?

2024年2月13日 19:56

私の名前の最初の記憶は「ようこちゃん」
やがて「かわむらさん」が加わったが
それは私でもあり
父母でもあり
時には叔父でもあった
この時代に
「ようちゃん」という声も聞いた
が、聞くたびに何とも居心地が悪かった

小学校に上がると「ヨーコ」が加わった
やがて「カーコ」が加わった
そのうち「ヨッコ」が加わった
「カワムラ」という呼び捨てが加わった
「豆タンク」と呼ぶ上級生がいた

この時代に
「葉子」という名前を
ひらがなで表記するよう厳命されていた
持ち物には「河村ようこ」と書かれていた
理由は知らない
隠れて密かに「葉子」と書き続けた

私は書くことが好きだった
中学に上がり
詩を書くうちにペンネームが加わった
時に「センパイ」が加わった

成年に達した頃
もう一つ別の氏名を自分で加えた
初めて買った万年筆にその名前を刻印した

あ、思い出した
アルバイト先で「ピンク」が加わった
勤務先では肩書呼称も加わった

人間はあらゆるものに名前を付ける
元はコミュニケーションに必要だったからだろう
識別しなければ伝達に困難が生じる

名前はもの、事象、個を特定する
故に時に思い入れが生じる場合がある
人にとって
自分の名前は自分を特定する大事なものだろう

私の名前は「川村」「陽子」「洋子」など
間違って表記されることがある
かつては「違います!」と気になった
それは私ではない

「河村ようこ」と書かされたのも同じだ
それは私ではない

「かわむらさん」にはよそよそしさを感じた
何となく私ではなく
羽織っているコートを呼ばれる感覚だった

別の名前を自分で付けたのは
この世界の中にいて
たくさんの妥協せざるを得ない居心地の悪さに
人には理解されない
あるいは
違うように決めつけられたくない
私という個を守り主張する方法だったと思う

いずれにしても
私にとって私の名前が大事だったことは確かだし
呼ばれ方が気分に影響することも確かだった

ちなみに
「ようちゃん」が居心地悪かったのは
それが最初は曾祖母の呼び方だったこと
当時の私が
親から曾祖母との接触を禁じられていたこと
曾祖母の呼び声に
ハイハイして近づく私を
親がいちいち連れ戻したこと
こうした体験記憶のせいだったことが
後年のゲシュタルト・ワークで解った

しかし、いつの頃からか…
気づいたら
こうした名前に対する思い入れが消えていた
表記間違いも気にならない
呼ばれ方も人任せで心地いい
呼びたいように呼んでほしい

「スズキサン」「イチ」「アカサタナ」…
本当は何でもいい気がしているのだ
もしかしたら
もう名前はいらないのかもしれない
コミュニケーションに困るから必要なだけで

「あなたは誰ですか?」
ゲシュタルトのベーシックな問いの一つ

私はたくさんの好きを持ち
たくさんの嫌いを持つもの
私はたくさんの怒りを感じ
たくさんの哀しみを感じ
たくさんの喜びを感じるもの
私は歩き、動き、掴み、離すもの
私は見て、聞いて、触れるもの
私は見られ、聞かれ、触れられるもの
私はこの身体を通して考えるもの
私は生きているもの
私はやがて死ぬもの

何を語りたいのか考えもなく
思い浮かぶままに打ち始めた名前の話は
大きな流れにダイブしたようだ

今の私は流れ にあるもの