夢のワークの、そのつづき
今年の初め、夢を見た。
その夢は、わたしの息子(5~6歳くらい)が、川でおぼれている小さな子どもを見つけて、「ぼく、助けてくる」と救助に向かい、そしてその子を救い上げた後に、川面から姿を消して、見えなくなる、というもの。
その夢からのメッセージを知りたくて、何度かセルフワークしたり、友人に話を聞いてもらったりしていた。
そして先日、その夢を、ゲシュタルトのグループの中でワークしてもらうチャンスを得た。
そのワークでの体験や気づきが、日常を過ごす中で、日々深化しているのを感じているので、スタッフブログの順番が回ってきたこの機会に(GNJブログは当番制です笑)、書きながら、セルフワークしてみようと思う。
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小さい男の子を助けた息子は、スーッとしずかに「沈む」というその体験に、身を委ねている。川底深く、静かに、静かに、沈んでいく。
静けさの中にいると、じぶんの身体の中、胸のあたりからも、「静けさ」が滔々と湧いてくることに気づく。
夢の中で、川に沈んでいったのは、息子だったのだけど。いま、その息子は、わたし自身にかわっている。
沈んでいくということや、息を吸えない、という状況に、圧倒されることはなく、身体の重量に任せて、深い川の中、ただ沈んでいく。
川は、わたしが母として過ごしてきた「時間」のシンボルだ、と思った。
その川は、かつて、清く、冷たく、流れのはやい川だった。それがいまや、澱んでいて、生暖かく、その流れはものすごくおそい。酸素濃度が薄くて、すこし先も見通せない。
まるで死の川。役目を終えて、そこにあるだけの川。
しばらく、この川の中に居たい、と思っていることに気づく。
この川の澱みは、20数年間、わたしたち家族が共に生きる中で共有された出来事やそこに湧き出た感情、ありとあらゆるものの残り香というか、「澱」だ。
いわゆるデキ婚で、仕事を辞めて結婚し、主婦になって育児生活が始まった。夫の仕事の都合に合わせて、年子の兄妹を両脇に抱えるようにして3回の引越しをした。そのとき、そのとき、母親として、子どもらのしあわせを守りたくて、いや、それよりむしろ、かれらの悲しい顔を見たくなくて、一生懸命だった。
夢の中でおぼれかけた子どもは、わたしの子どもたちのようであり、わたし自身のようでもある。
おぼれる我が子に気づいて「あの子を救えるのは自分しかいない」と、迷いなく川に飛び込み救助にむかうように、生きてきたのは、「母」であるわたしだ。
「母」という役割のため、重い鎧を装着して、日々おぼれそうになっていたのもわたしで、そんなじぶんを助け上げたのも、結局はわたし自身だ。
子どもらが幼稚園児の時に、ゲシュタルトとその仲間に出会えてよかった、と心からおもう。
終わるんだ。いや、もう終わったんだな、わたしの子育て。
身体の内側から、胸のあたりから湧いてきていた「静けさ」を思い出し、そこに意識を向けていると、静けさの奥に、深い安堵感と、あわい喜びのようなものがあることに気づく。
役割を終えた死の川の、その静けさの中に、いまはもうすこし、身をゆだねていたいと思った。
そうこうしているうちに、いつか、豊穣の海にたどり着くかもしれない。
そしたら、浮力が働いて、ふわって海面に浮かびあがって、大きく呼吸して、わたしはまた新しい人生、始めるのかも。
その予感のようなものも、すでに、ちょっとだけ、感じないわけでもない。けど、急がない。
いまはもうすこし、静けさの中にいる。