メキシコにいってきた
9月半ば、メキシコに行ってきました。
成田空港から空路で約13時間。降り立ったのはメキシコの首都メキシコシティ。最終目的地は、IAAGT(The International Association for the Advancement of Gestalt Therapy)が開催される海辺の町ベラクルス。12日間の旅でした。
旅から帰国し、メキシコどうだった?とよく聞かれます。
食事がおいしかった。遺跡が圧巻だった。大会が刺激的だった。などなど、メキシコで過ごした日々のことを思い出して、いろいろに表現して伝えます。
でも、その度に、なんというか、飲み残しのコーヒーみたいな、ちょっと扱いに困るようなものが、私の中に残ることに気づいていました。
ぐっと飲み干して席を立ちたいんだけど、口はとっくにコーヒーを欲しがっていない、どうしよう、みたいな。伝わるだろうか(笑)
今、その感覚を思い出しながらいると、前に読んだ本の一節が、うっすら浮かんできました。
『その空間、その空虚が、その部屋の有用性なのだ』
メキシコの町で見てきた街並み、家々の風景。
パステルカラーに彩られ、明るく光を反射する外壁とは裏腹に、光を取り込まない家々の内側は、薄暗く、ひんやりとして、静かでした。
一見、無愛想に見えて、話してみると明るく、とても優しいメキシコの人たち。そんな彼らと出会いながら、ふとしたある瞬間、彼らの胸のあたりに、ぽっかりとしたスペースがあるような、そんな感覚を味わったことを思い出します。
思い浮かぶままにこうして書いていると、書き出した時より肩の張りが楽になっていることに気づきます。肩から手のひらを通って、何かがすーっと抜けていくみたいです。
「かなしみ」という言葉が浮かびます。
もしも、訪れたその土地が、その土地の持つ「意味」が、わたしに何かを訴えかけていたとしたら。そして、私の中に、そこに呼応する何かがあったとしたら、それはいったいどんなことだったのだろう。「かなしみ」は、どこからきたのか。
言葉にならない旅の余韻は、そこに、わたしにとって大切な「なにか」を含んでいることに気がついています。
旅の終わりがみえてきた。コーヒーを飲み切って、空のカップをテーブルに置き、すっきりと席を立つ。
Adios Mexico! また会おう!