自分を表現すること
GNJのブログ初登場となりました。岡本太郎と申します。
なんだかんだでスタッフとして入ってから、あっという間に1年が経ってしまいました。
ネタを何にしようか悩んでましたが、ちょうど最近お気に入りの作品について語ってみようと思います。
僕はけっこうアニメ好きなのですが、最近は「落語心中」という漫画原作のアニメにはまっています。
落語という芸事を修めて受け継いでいく中での葛藤と、人間関係の情、つながりやもつれの見事に絡み合っているさまが描かれていて、面白いです。
その中でも、ひとつ印象に残っているシーンがあります。
(未読の方は、あらすじと少しだけネタバレがあるので注意)
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物語の主人公格である菊比古という青年は、芸者の家に生まれました。
芸者としての稽古は重ねるが、男なのでその道に生きることはできない。また怪我で足に障害が残ってしまう。そのような背景から、まだ幼い時分にもかかわらず、半ば捨てられるように有名な落語家の元に弟子入りさせられてしまいます。
生きていくために一生懸命落語には取り組みますが、同期には天才肌の弟子がいて、力量やセンスの違いをまざまざと感じ、羨望や劣等感にもがきます。同時に支え合い、互いに刺激を受けながら成長していきます。
なかなか自分の落語を見いだせなかった菊比古でしたが、ある時、鹿芝居という落語家による芝居に出演し、女性を演じます。すると“自分の一挙手一投足に客が心を動かしている”という手ごたえを得ます。
そして、その後ある寄席で「品川心中」という女性の色艶を表現する落語を演じたとき、これまでとは違い自分の表現が客の心を確かにとらえているのがわかります。同時に、自分が何のために落語をしているのか悟ります。
「ああわかった。あたしの落語は誰のためでもねえ、手前のためにやってたんだ。手前の居場所をこさえるため、ここにいても大丈夫だと思うため」
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僕にとってこのシーンは、すとんと腑に落ちるような感動がありました。
菊比古が自分の出自や個性、自分にあるものを最大限に生かした表現を見つけた瞬間であり、それが観客の心に響いた瞬間のように感じられました。
これまでの傷や哀しみ、葛藤も含めた、すべてが肯定されるような体験だったのではないか、と追体験していました。
それはゲシュタルトの体験にも似ているように思います。
ワーカーとして自分のテーマに取り組み、心からの何かを表現した時に、それがその場をともにする人に響くという体験。またファシリテーターとしても、自分のありようが目の前のワーカーや、場と共鳴して何かが生み出されていく体験。
どちらも、自分が自分として生きている肯定感や喜びのようなものを、鮮やかに味わう瞬間だと思います。
僕も菊比古のように、自分でいいんだという手ごたえを得て、救われてきたように思います。
そういう意味では、ゲシュタルトも伝統芸能に負けないくらい味わい深い営みだな!と思えてきます。
さまざまな経験をしながら、僕も自分のゲシュタルトを見出していくのだろう。いろいろあるでしょうが楽しんでいこう、と思わせてくれた作品でした。