座禅体験(五)
僧侶は代々木公園のブルーシート生活者に対する朝食の炊き出しに参加していました。
一度は拝見してみたいと思いながら行かずに終わってしまいました。
また、先日はお見舞金3億円を持参してタイのボランテアの方と東北の災害地を訪れました。
仏教入門
こっち側~ 向こう側~
こっち側から見る自分、聞く自分、考える自分とは、つまりこっち側にできた自分が向こう側を見たり聞いたり考えたりする自分です。
向こう側は見られる対象、聞かれる対象、考えられる対象となります。
また、こっち側の自分には自分自身に向かう自分がいます。自分自身が二つに分かれていて、自分自身をああでもないこうでもないとひねくり回すのです。
頭はこのように働くことしかできません。
仏教ではこのように頭を通して解釈し判断する智慧を「分別智」といいます。分別智とは物事を識別、弁別する智慧、ゆえに苦悩する。これはいわば頭というカメラで撮った写真のようなものです。いいかえれば解釈であって、ここに生きる自分そのものではありません。自分の向こうに見られ、聞かれ、考えられているもの、そのものでもありません。これを抽象化して作り上げたもの、つまり写真に撮って固定化したものであります。私たちは物心ついたころから、このスナップ写真をずっと撮り続けてきたわけで、いつの間にかそれが繋ぎ合わされ、各自が自分とか他人とか考えているイメージが出来上がったわけです。そしていつのまにか自分の中に自分という塊があると思い込んでできたのが、普通私たちが「自分」だと思っているのです。
仏教ではこのようにしてできた自分を「常―主宰の我」となづけています。
つまり一定の塊が自分の中にコンスタントにあって、自分が生きることを支配しています。そしてそういう自分が存在しているのではないかと思ってしまうわけです。
これが普通「自分」とか「自我」とか言われるものです。すなわちパツ、パツ、パツと頭に写される映像そのものは自我ではないのですが、いつのまにかこちらに自分という塊が存在するというところに、いわゆる「自我」が成立します。しかもこの思い込みは仏教の教えるところによれば、私たちが生まれたり死んだり繰り返してきた遠い、遠い昔からのことで、したがってこの観念的自己を本当の自己だと思い込んでいることも知らないというのです。人間は成長するにしたがって考え方の枠(解釈)を作ってきますが、自我が確立されてきますと自我を中心とした考え方の枠ができます。いわゆる常識というのはそれの余りで組織立たない「やつ」です。
つづく