座禅体験(四)
2024年6月2日 12:17
私は文章を書くことに対する苦手意識があり、その中でもブログは最も苦手の一つです。
僧侶が常々申している言葉は「体験を書くときは自己判断しない、答えを出さない」です。
今日は仏教学入門の第一日目です。
台東区立社会教育センターホールで行われました。壇上の僧侶はいつもの萌黄色の袈裟衣ではなく背広姿です。参加者は四,五十人ほどでしようか。
仏教をどう学ぶかについての講話が始まりました。
すべての道は「方法」から始まります。仏教を自分の生活にどう活かしていくか。
まず仏教を学ぶ目的を確かめましょう。そして仏教をどう学ぶか。伝統的な学び方とこの講座での新しい学び方に分けて整理してみます。
- 仏教を学ぶのは、この人生に確かな意味を与えるためと言えます。
「確かな意味を持つ人生」とは、幸福であり、充実であり、安らぎであり、希望であり、喜びと言えるでしょう。
この場所で学べるのは、仏教の考え方、理解の仕方です。 - 仏教をどう学ぶか。今の日本に伝わる仏教はブッタの教えとは別物だということです。
たとえばお経を読むことは仏教か?というとかなり疑わしい。というのも、漢訳の経をいくら音読しても十分理解するのは困難です。一方ブッタが用いた言葉は、当時の庶民の話し言葉(古代マガダ語)で誰でも聞いてわかる言葉でした。ところがブッタの教えは後にサンスクリット語という知識階級の言葉に置き換えられ、中国に渡って漢訳されその漢訳が日本に渡り「お経」として今に続いている。
「理解できないのがありがたい」とブッタ自身が説いたのなら、今日のお経は仏教だと言えます。しかし「理解できないものは意味がない」というのがブッタの考えでした。とすると分からない経を読むことはブッタの教えではないということになります。 - では、他に仏教を学ぶ方法はあるでしょうか。最も現実の暮らしに役立ち、生き方にも取り入れられるような、明快で、使いやすい、骨太な学び方はないのだろうか?
方法は一つあります。それは過去二千五百年に亘り積み上げられてきた仏教思想(その数は「八万四千の法門」と喩えられるほど膨大です)から、ブッタが生前説いていた教えの本質を抜き出し、それを元に仏教の知識を体系的に吸収するという方法です。
講話の終了後 「ブッタの生涯」が上映された。
つづく→【座禅体験(五)】